子どもたちの心の叫びや思い (大河内氏の講演録)
1 はじめに
本記事は、2016年11月20日に京都大学で開催された関西教育フォーラム2016「いじめ問題を、もう一度。~行政×学者×遺族で創る『新しい教育フォーラム』~」内で行われた大河内祥晴さんの講演
録です。
2 いじめをなくすということ
いじめをなくすということは非常に難しいです。何故ならば、いじめを発見し、早期対応することは中々できないからです。残念ながら、一部の学校ではまだ、いじめをどう考え、捉えるのかという認識が欠けていると私は思います。その結果、現場の教師や子どもが迷っている中でいじめの対応が遅れるということがよくあります。
3 いじめの深刻さ
私が思うにいじめの深刻さとは単にいじめを受けている行為ではないと思います。仲間にいじめられているという辛さ、家族に知られたくないという思い、そして助けてほしいと誰にも言えない苦しさがいじめの最も深刻な問題です。 私はいじめを受けた子どもたちの相談に乗る機会が多いのですが、必ず彼らは「最後まで話を聴いてくれてありがとうございました。」と言います。これは単なる感謝の気持ちではないんです。「ありがとうございました。」という言葉の中に誰にも話すことができなかった、聞いてもらえなかったという想いが込められていると私は強く感じてきました。
4 癒えない心の傷
いじめが終わったとしてもその心の傷が癒えることはないです。この20年間様々ないじめを受けた子どもたちに出会いましたが、みんな苦しみの中にいます。例えば、小学校6年生の時にいじめられて、その辛い経験を忘れるために学校を転校して通信制高校に移った子どもがいます。高校を卒業する時には20歳になっていますが、彼はやっと、少しでも前に進むことが出来たと喜びを言葉にして伝えてくれました。 また、中学校3年間いじめに苦しんだ子どもがいます。高校に入学した時の気持ちを手紙に綴って送ってくれました。
「でも、高校に入学してある異変が訪れました。まるで嵐が去っていったようにいじめに遭わなくなったのです。高校の仲間は僕を一人の男の子として普通に接してくれました。その内、自分がおかしかったのはあの中学に行っていたからだ。もし、別の中学に転校していたらと思うようになり気が付いたら不登校になっていました。」
いじめがなくなったからよかったというわけではないんです。おそらく彼は自分に何か悪い原因があって、また高校でも同じようにいじめを受けるかもしれないと覚悟して高校に入ったのだと思います。しかし、現実はそうではありませんでした。あの3年間は一体何だったのだろうと、彼は自分の気持ちを整理できない中でやがて、病院で治療を受けるようになりました。私と出会った時の彼の最初の言葉が「おじさん、僕を見てどう思う。」という言葉でした。私は戸惑ってしまいましたが、今思えば彼は自分がどうなってしまったか分からなくなり、それを確かめるために私に訊ねたのだと思います。いじめられることによって自分自身を失ってしまう、それほど、いじめは残酷なことだということを忘れないでほしいです。
5 いじめはどうして起こるか
いじめは日常化しているのではないかと私は思います。何故、大人や社会が、言葉による暴力を無視しているのかと思います。例えばある女の子からこんな話を聞きました。
「仲の良かった男子への陰口がばれ、怒ったその子が仲間を連れて教室に乗り込み、『死ね』という言葉を何度も何度も言われた。『死ね』という言葉の重さを始めて実感しました。でも私もいつも使っていた言葉なんだよね……。」
彼女は気づいてくれたんです。今、親や教師はその問題を放置しているかもしれません。一度で聞いてくれないかもしれません。それでも私たち大人が子どもに言葉の残酷さを気づかせないといけないんです。誰しもその役割を担っていることを忘れてはいけません。
6 いじめに対する社会の声
私が一番気になるのは、
「いじめは難しい、受け止め方によって違う。耐えられる子と耐えられない子がいる」
という言葉です。耐えられる子と耐えられない子がいます。それでは耐えられないと思っている子はどう考えたらいいのでしょうか。その子どもたちは私の所に相談に来て、悩みを話そうとしているんですが、なかなか本当のことを話してくれません。彼らはきっと、自分が嫌だと思っていることは正しいのだろうか、自分がだめだからそう思うのではないか、周りの子どもが気にしていないのだから、強くなければならないと思っています。耐えられない子がどう考えるのか。もっと、大人は真剣に、冷静にいじめということに対して向き合ってもらいたいと思います。
7 いじめの定義とは
それからもう一つは、いじめをどう判断するかはすごく難しいということです。私はいじめに代わる言葉はないのかなと思っています。いじめという言葉があまりにも独り歩きしてしまっている気がします。本当は「人の心を傷つけない」「嫌だと思うことをしない」そういう定義していいのではないでしょうか。何か問題が起こればそれがいじめであるのかないのかという議論が始まる。どうしてそんなことを第一に考えなければいけないのでしょうか。私も本当にこの問題をどうしたらいいかは分からないのですが、今のいじめに対する対応はどこまでいっても出口が見つからない。そんな風に私は考えています。
8 いじめ対応の不十分さ
最近の報道されているいじめ問題は本当に一部なんです。身近にもそういう例が沢山あります。文科省をはじめ教育関係者は、いじめに向き合わなくちゃいけないと言ってはいますが、本当にいじめに対して真剣に向き合おうとしているか疑問に思います。いじめだと考えなければ、いじめかもしれないと思わなければ、対応はできません。そのスタート地点から全く話にならない学校・教師が多いと私は思っています。 対応自体も、いじめかどうかをまず考える人が多いです。
「お父さん、これはいじめですか」
——これは西尾市、私の息子が亡くなった後、いじめに対して色々考え、過敏になってる教師の反応だったと思うのですが、どうしてもこういう言葉が出てしまうんですよね。いじめでなければいいのか、当然そのような疑問を持って接するのが親ではないのかと私は思います。問題だと分かっていても、いじめにはしたくない。そんな本音が見えてくるのは気のせいでしょうか。 数年前、子どもが訴えたある裁判を傾聴した時、校長先生が
「子どもを信じなかったら教師は終わりだ。調べられるのは警察だけだ。」
と証言しました。息子がいじめられているということに気づいた保護者が学校に伝えられたのです。対応は、まず、担任が加害者にいじめかどうかと訊ねるものでしたが、「そんなことはしてない。いじめなんかしてない」と答えると、そのまま、いじめはないということで終わってしまったのです。当然家庭でも、そして裁判官もおかしいと思います。なぜ、保護者の申し出に対して、いじめられた子に訊くという対応を取らなかったのかと言われたとき、校長先生はそう答えたそうです。警察がいないと調べることが出来ない、違いますよね。警察とは、捜査して立件するための組織です。学校にそこまで必要なのでしょうか。これは一人の校長先生の言葉ですが、現状を見ていると、こういう校長先生は沢山いるのではないかと思います。報道されている内容、状況と照らし合わせて判断していただきたいです。 言い過ぎたかもしれませんけど、共感してくださった方もいるのではないかと思っています。こんな言い方は非常に失礼ですが、本当に子どもを信用してあげられる教師がどれだけいるのか、そういう問いかけも、今後、必要になってきます。いじめ防止対策推進法が出来てやっと現状が変わると思いましたが、そうではありませんでした。未だに自ら命を絶つ子どもがいて、家族が「いじめがあるんじゃないか」と言っているんです。それなのに学校は調べようともしません。 自治体によって、学校によって、いじめに対する意識の差がとてもあります。私が関わった自治体はただ問題対策委員会を作るのではなくて、異常事態が起こった時にすぐ対応できるように、教師・親・子どもに聞くアンケートの様式を用意しています。もし、異常事態が起こると、すぐに県をあげて対応します。そういう自治体に今、関わっています。ただ、実際にどういう形で展開されるのか分かりませんが、一般的にはそうではないのです。さっきほど、加野先生が当事者とは関係ない第三者委員会が、いじめがあったかないか確認する必要であるとおっしゃっていましたが、そんなものは必要ではないのです。いじめであろうとなかろうと、子どもが何故亡くなったのか、学校の責任として知らなくはいけません。しかし、学校は嫌がり、何故子どもが亡くなったのか知ろうとしません。私の身近でも実際に「いじめが無かったら無かったということでいいじゃないですか」と言う教師がいました。子どもが亡くなることは異常な事態です。でも調べようともしない。そんな学校もあるんだってことを、やはり皆さんには知っていただきたい。
9 いじめを相談することの難しさ
それから気になることですが、スクールソーシャルワーカーが子どもたちを前にして、「いじめを打ち明けないのは悪いことです」という言い方をしていたことがあります。先ほども述べたように子どもたちは自分の辛さを打ち明けようと思っています。悪いと言われて、自分から相談しようと思える子どもがどれ位いるのでしょうか。子どもの気持ちを最も考えなければならないスクールソーシャルワーカーがこんなことを言うのかなと、非常に寂しい気持ちになりました。 いじめを相談することの難しさ。これは先ほども言ったように、私たち大人が子どもに言い出しにくい雰囲気を作っているのではないかと思います。子どもは本当に健気なんです。「親にこれ以上迷惑を掛けたくない」「悲しませたくない」、そんな思いの中でぐっとこらえなくちゃいけない、そんな子が沢山いることを、私も一人の親として、真剣に考えなくてはならないと思っています。
10 子どもはいじめについて真剣に考えている
息子の小学校のハートコンタクト活動と書いてありますけど、私の場合は同じような経験をされた方と違って、学校の後輩・同級生を含めて本当に清輝の死を悲しんで、いじめについて考えようと、自主的に、生徒会などが特別に、こういう活動を続けてきてくれています。この活動に対しては本当に感謝しかありません。しかし、そのメンバーからも、いじめについて考えていく中で、いじめであるのかないのか、悩んでいる子たちにどう声を掛けたらいいのか、迷ってしまうということがありました。これも先ほど言ったように、いじめであるかないかという考え方になってしまっているんです。先日、中学校の三年生の集会に行ってきました。その中で、「いじめって気になること気にしない子がいるから」という言葉がありました。大切なのは、何とも思わない子もいるかもしれないけれども、気にしなければならないということです。大人の間にも、耐えられる子と耐えられない子がいるという考え方がじわりじわりと浸透してきていますが、それでいいのかと私は疑問に思っています。 ハートコンタクトの話をしましたけど、私は子どもたち自身が一番いじめについてわかっていると思います。いじめ防止対策推進法にも謳われていますが、子どもたちにどう気づいてもらうか。そういう輪を子どもたち自身にどう作っていってもらうのか。それが私たち大人の一番大事な役割だと思います。大人が「いじめは駄目だよ、悪いことだ」と言ったって、ピンとこないんですよね。少年院の子が言ったように、「相手の子がどんな辛い思いをしているか考えたこともなかった」。考えさせる場がいるのです。それが今の学校にはあまりにも欠けています。子どもたちに辛い思いを、手紙を通して聞かせてもらう機会が多くありますが、その感想文の中には、
「私はいじめというものがどんなに人を苦しめるものか、分かっていませんでした。」「手紙の内容を聞いていじめられている子がどんな風に思っているのか、私も少し分かりました」
という子がいます。子どもたちに、いじめがどれほど辛いものか、実際に感じてもらえる機会があることが大切なのです。本当はいじめに苦しんでいる子が、そこの場で皆に自分の思いを伝えることが出来る、それが一番理想だと思うのですが、なかなか出来ていません。何が必要なのかということを、もう一度考える必要があると思います。
11 遺族として思うこと
最後に一言だけ、これは私自身への戒めでもありますが、振り返ってみると、やはり息子を救うことができたのではないかという思いはあるのです。何度も言ったよう、いじめられてきた子どもはどんな気持ちでいるのかということを念頭に置いて、子どもに接さないといけません。それからもう一つ、私は遺書を公開しました。他に同じような思いをされた方ともお会いするのですが、「こういう形でメディアの力を借りるのか」と皆さんに驚かれます。私はもちろん子どもが自殺したということを公開することに抵抗はあります。それでも、子どもの死を、少なくとも同じ学校の子どもたちには活かしてほしいという思いがあるのです。しかし、そう思いながらも遺書を公開できない遺族の方も多くいらっしゃいます。相手の子どもへの配慮、周りの子どもへのケア、それらもすごく大事だと思います。しかし私は、一人の子が亡くなったのであれば、それを周りにしっかり伝えてほしいです。……本当に亡くなった子どもは帰って来ませんが、子どもの思いを少なくとも周りの子に、どんな形になるにしろ受け止めてもらいたいです。そのためには、いじめをなかったことにしてほしくないです。そんな思いをお伝えして私の話を終わりたいと思います。
12 講演者プロフィール
大河内祥晴
1946年生まれ。1994年にいじめグループによる暴力や金銭等の強要に耐えられずにこの世を去った大河内清輝君の父親。清輝君の事件を機に、全国のいじめ被害に遭う子どもたちと手紙を通して対話するという活動を始める。その中で教えてもらった「子どもたちの心の叫びや思い」を、講演などを通して伝えることでいじめの残酷さに気づいてもらい、一緒に考えてもらうための活動を各所で続けている。
(編集:EDUPEDIA編集部 中澤・内山)
【関西教育フォーラム2016特集企画】もご参照ください ⇒ こちら