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大河内祥晴さんインタビュー(関西教育フォーラム2016『いじめ問題を、もう一度。』)

1 はじめに

本記事は、2016年11月20日に京都大学で開催された関西教育フォーラム2016「いじめ問題を、もう一度。~行政×学者×遺族で創る『新しい教育フォーラム』~」後に、ゲストの大河内祥晴さん(1994年に愛知県で起きたいじめ事件の遺族)にインタビューしたものです。

2 大河内祥晴さんインタビュー

Q.いじめに対して真剣に向き合うとはどういうことでしょうか。

A.まずは、いじめとは何であるのかを考えることが大切だと思います。いじめという言葉は知っていても、私自身もいじめとは何であるのかを説明することはできませんでした。いじめと疑われるような行為を受けていたとしても、「子どもが気にしていないようだから放っておいた」というような例もあるのですが、それではやはり真剣に向き合っていることにはならないと思います。子どもがどのような出来事に遭い、どう感じたのかについて、寄り添って考えていく、ということだと思いますね。

まだまだ、世間にはいじめのこと理解している人は少ないと感じています。テレビで、いじめで亡くなった子の命日にクラスメイトがお墓参りをする様子が放映されたことがありました。それを観た方からテレビ局に、「墓参りなんて強いることを辞めて、子どもたちを開放してあげたらどうか」といった意見が寄せられたそうです。しかし、その子どもたちは先生に言われて墓参りに行ったわけではありませんでした。彼らの中には、過去にいじめに遭っていた子たちもいました。子どもたち自身が、仲間とどうやってうまくやっていったらいいのか、ということを真剣に考えている、ということでしょう。子どもたちの、いじめに対してしっかり考えようとする思いを、周りの大人たちはちゃんと受け取らないといけないですし、それに対し大人ができることを考えていかないといけないと思っています。

Q.子どもの方がいじめ対して真剣に考えていたり、気づいていたりすることが多いということなのでしょうか。

A.私はそう思いますね。子ども自身が、いじめは無くすことがとても難しいと身をもって感じているわけです。いじめの怖さを身近に感じているとも言えます。子どもに比べて、親や周りの大人は、まだまだいじめに向き合おうという意識が足りていないのではないか、と感じます。

Q.いじめは子どもに限らず大人の世界でも起きてしまう現象でだと思うのですが、いわゆるいじめに共通することは、どのようなことだと思いますか。

A.私の場合、息子をいじめていた子たちが高校生になるまで会う機会があったのですが、その4人のうち3人は、1人の指導的な立場の子についていっただけだったんですね。一般的にも、いじめに関わっている人の多くが、実はたいした理由もなくただ面白いから、といった形で関わっているのだと感じます。子どもも大人も、社会生活の中で不満を抱えていて、それを自分で解消するのではなく、人にぶつけることで解消しようとしてしまう。自分の優位性を感じたいと思ってしまう。そういうところがあるのではないでしょうか。

Q.この、大人にも子どもにもあるいじめという現象から、私たちはどのようなことを学ぶことができるのでしょうか。

A.私が知っている例だと、いじめっ子の立場である子と、過去にいじめられていた経験がある子が、同じ高校に通っている、ということがありました。そのいじめられていた子は、いじめっ子のことが怖くて、はじめは敬語を使っていたそうです。しかし、だんだん2人の間のわだかまりが取れて、友達のようにして私のところに訪ねてきてくれました。いじめて、いじめられた二人だからこそ、こういう関係性がいいんだ、ということに気が付いてくれたのだと思います。

これから、人と人との関係性は、希薄になっていくような気がしています。子どもが、同じ学校にいて、同じ教室にいるというのは一つの貴重な出会いなわけです。そういう出会いというのは本当に大事なものだということを、私は今になって子どもたちから教えられました。大人も同じで、一つ一つの出会いというものを、その意味を、考えていくことが必要なのではないか、と思います。

Q.子どもがいじめられていると気づいた時、親はどのようにして見守るべきか。親は子どもに尋ねてもいいのか。

A.これはとても難しいことだと思います。例えば、私が相談に乗っていた子によると、親が先生にいじめられているということを伝えると現状がより悪化したそうです。だから、静かに見守ってくれている方が良かったと彼は言っていました。しかし、いじめの怖さは放っておくと、どんどんエスカレートしていくということです。その見極めは難しいと思いますが、親は子どもが何と言おうと必ず子どもを助けるという気構えを持っていないといけないと思います。子どもはいじめられていることを親に伝えないとといけないとずっと思っているはずです。でも、そのことを言い出せる機会はあまりないです。子どもが親にいじめられていることを話せる機会を作り出すことが大切だと強く思います。

自分の過去を振り返ってみると、あの時、ああいう言葉を次男にかけることができていればきっと本当のことを言ってくれただろう思うことが何度もあります。普段から、一人の人間として自分が中学生の時、こんな出来事があったと伝えてあげればよかったと思うんです。自分の息子が亡くなってから初めて、忘れていたことを思い出します。自分も過去に同級生をいじめていたことがありました。その時、ある教員が、「お前ら何している」と注意するのではなく、「あいつがいじめられてどんなことを思っているか、考えたことがあるか。」と言ったことが印象に残っています。自分自身、何も考えずその子をいじめていたんですね。きっと、その子はこんなことを思っている、だからもう二度としてはいけないと深く反省したことを思い出したんです。直接繋がっていなくても、そういう経験を子どもに伝えていくということは大切です。親が「いじめられているか、大丈夫なのか。」と子どもに聞くと逆に言い出すことが出来なくなっていると思うんです。親の想いを伝えることは、子どもがいじめを相談する一つの大きなきっかけになります。

Q.大人や子ども、立場に関わらず、同じ目線にたって共通の想いを話すことが大切ということですね。

A.その通りです。「いじめられているか、大丈夫か。」と子どもに尋ねることは結局、親の立場で言っていることです。親という立場を捨てて、一人の人間として自分の経験したこと、考えていることを話すということが一番、大事なことだと思います。難しいことですが、意識すればそれに近いことが出来るはずです。私は今までたくさんの子ども達の相談に乗ってきましたが、具体的なアドバイスをしたことはあまりないです。一人の人間として、過去に私もこんなことがあってこう思ったよと伝える方が、子ども達も素直に受け止めることが出来るのではないかと思います。どうしても、子どもが困っている時は、大人という立場を振りかざして、こうするべきだと子どもに言ってしまいがちですが、それは子どもの心には届かないのだと思います。

Q.先ほど、子ども同士でいじめについて考える機会があるといいとおっしゃっていましたが、それはどういうことですか。

A.私はいじめについて考える時、子ども主体の目線というものが抜け落ちているのではないかと思います。いじめについて色々と発言しているのは大人の目線です。子どもの時代に戻ることは出来ませんが、子どもがどう思っているかという原点に立ち返らないといじめ問題の解決には近づかないのではないかと思います。子どもたちは大人よりも真剣にいじめ問題について考えていると思います。クラスの状況はどうだとか、休んでいる同級生にどう声をかけるかお互い本当に真剣に話し合っているんです。全て話し合うことは難しいですが、皆が思っていることを本音で伝え合うことが大切だと思います。クラス全体でいじめは良くないという雰囲気を作ることが、一番いじめ防止に繋がると私は思います。

Q.傍観者が仲裁者に変わることによって、いじめがなくなるということですね。

A.そうです。先生がいじめを直接注意するよりも子ども達がいじめをなくそうという雰囲気を作ることが大切です。いじめを認める傍観者が増えると、いじめはどんどんエスカレートしてしまいます。いじめを仲裁するような雰囲気を子ども達自身で作り、それを大人が援助するという形が一番大事だと私は思います。

Q.いじめが自殺にまで至るような極端なものにエスカレートしてしまうのは、どのような要因が関連しているのでしょうか。

A.私の息子も含め周りに(いじめで)亡くなる人がいて、どんな気持ちだったのかと考えてみますが、はっきりこうだというものは浮かんできません。「死ね」という一つの言葉にしても、受け入れられるときと受け入れられないときがありますよね。「ふとした思いつきで死を選んだ」「軽い気持ちで死を選んだ」という言い方をする専門家もいますが、そんな風に人間の心を推し量れるのか、と疑問に思っています。基本的に人間は弱いものですよね。でもその弱さも、他人から力をもらって元気になることもあれば、どんどん弱っていって悪い状態になることもあります。心が弱っているときにいじめを受けて「もう耐えられない!」と死を選んでしまうのも、それも人間ではないかなと思うのです。だから、そういうときにちょっと自分の視点を変えるような場が足りないような気がします。私も息子が何とか命を落とさないでいてくれたらとは思うのですが、誤解を恐れず言えば、死を選ぶということも認められていいのではないかと思います。その代わり、死を選ばない理由もいろいろあるんだよということを、何とか教えてあげられればいいとも思うのです。

Q.人間は弱いものだ、というのは本当にその通りですよね。

A.いじめている人もいじめられている人も、同じ人間という弱い存在だという原点に戻らないといけないですね。どんな宗教もそこが根本にあると思います。とても辛いけど、これは人間の弱さなんだよって思うだけで、自分はダメだという気持ちが少し和らいで、心のゆとり、元気になる力が湧いてくるような気がします。

Q.いじめの加害者になっている人も、ある意味心の弱さが表れてるのではないかと思います。

A.そう思います。弱さに気づかないのか、弱さを隠そうとしているのか。いじめている子も、気が付かないだけでかなり無理している部分もあると思いますね。

Q.いじめの加害者の話も聞いてこられたと思いますが、やはりそういう弱さのようなものは感じますか。

A.そうですね、それはありますね。相手の子たち(注:清輝くんの事件の加害者)に「いじめについてどう思っているのか」を直接聞いたことは無いんですけど、彼らが高校3年間ずっと親と一緒に命日にお参りに来てくれてたんですよね。毎週土曜日に、息子に対してやったことを書いて持ってきてもらっていたんですが、最初のうちは「どうしてこんなひどいことを平気で書けるんだろう」と、心がかき乱されました。しかし、彼ら自身も自分のやったことに気づくというか、正直に打ち明けようと思ってくれたみたいで、周りの同級生もそれを受け入れているんですよね。私からすると少し奇異に感じましたけど。彼らも、自分は清輝に対してひどいことをしたけど、それでも周りは仲間として受け入れてくれているというのはすごく感じていたみたいで……その中で彼らが自分の弱さに気づいたかは分からないですが。

Q.最後に、今回いろいろな立場からさまざまな議論がありましたが、そのなかで一番印象に残ったことや、感じたことを最後にお聞かせください。

A.今日は本当にたくさんの人がいらっしゃって、私は学生さんが多いのかと思っていましたが、大人の方も結構みえたじゃないですか。それにとても驚いて、そういう場で喋らせてもらえたことにまずは感謝しています。いじめに関して様々な報道がなされる中で、それを聞いているとやはり気持ちは穏やかじゃないんですよね。そこを聞いてもらえたこともよかったと思います。また、私よりも知識・経験が豊富な先生方の話を聞いて、本当にそうだなあと思うところもいっぱいあったので、持ち帰ってもう一度じっくり考えてみたいと思っています。ただ自分は学者だとか研究だとかには行きつかないと思うので、これからも子どもとの出会いを大事にして、子どもたちの声から、まだまだ分からないことを教えてもらっていきたいと改めて思いました。

3 大河内さんプロフィール

大河内祥晴

1946年生まれ。1994年にいじめグループによる暴力や金銭等の強要に耐えられずにこの世を去った大河内清輝君の父親。清輝君の事件を機に、全国のいじめ被害に遭う子どもたちと手紙を通して対話するという活動を始める。その中で教えてもらった「子どもたちの心の叫びや思い」を、講演などを通して伝えることでいじめの残酷さに気づいてもらい、一緒に考えてもらうための活動を各所で続けている。

(取材・編集:EDUPEDIA編集部 新井、内山、中澤)

【関西教育フォーラム2016特集企画】もご参照ください ⇒ こちら



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